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ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年) : ミニ英和和英辞書
ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年)[ろーまによるぶりたんにあしんこう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
侵攻 : [しんこう]
  1. (n,vs) invasion 
紀元 : [きげん]
 【名詞】 1. (1) era 2. (2) A.D. (Christian era) 
紀元前 : [きげんぜん]
  1. (n-adv,n-t) pre-era 2. BC 3. BCE 
: [げん, もと, がん]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 4. (2) former 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年) : ウィキペディア日本語版
ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年)[ろーまによるぶりたんにあしんこう]

この項目では、ガリア戦争中の紀元前55年(以下、紀元前は「前」と表記)と前54年の2度〔カエサル「ガリア戦記4.20-4.355.15.8-5.23〕〔カッシウス・ディオ ''Historia Romana'' 39.50-53 , 40.1-3 〕〔フロルス ''Epitome of Roman History'' 1.45〕にわたってガイウス・ユリウス・カエサル率いる共和政ローマ軍がブリタンニアへ侵攻した戦闘を中心に記す。
夏の終わりに行われた1度目の侵攻(前55年)は、完全な侵略というわけではなく、勢力誇示と偵察程度のものであった。現在のケント近郊の海岸に足掛かりを得たが、ほとんど何も達せられず、失敗の部類に属する。
2度目の侵攻(前54年)は1度目よりは成果を収めた。新たにローマの版図に入った領地は無かったものの、友好関係にあったトリノウァンテス族およびその王マンドゥブラキウスen)との同盟関係を回復し、マンドゥブラキウスのライバルであったカッシウェラウヌスを軍事力で服従させ、ブリタンニア東部の部族に対して、ローマへ貢物を送ることを約束させた。

==カエサルによる侵攻前のブリタンニア==

ブリタンニアはの産地として遥か古代より知られており、前5世紀にはカルタゴの航海者ヒミルコ(en)、前4世紀には古代ギリシア時代のマッシリア(現:マルセイユ)出身の地理学者ピュテアス(en)がそれぞれブリタンニアへ到着し、探検したと伝わっている。
しかし、大海の向こう、古代の人間が知り得る世界の外縁部に当たり、ブリタンニアは大きな謎に包まれていた。何人かの著作家は、ブリタンニアは存在さえしないと主張し〔プルタルコス「英雄伝」カエサル 23.2 〕、ピュテアスの航海自体も全くのデタラメと捉えられていた〔例えば、カエサルの時代の少し後に書かれた ストラボン「''Geography''」 2:4.1 ポリュビオス「''Histories''」34.5 (なお、ポリュビオス自身が進めていた大西洋岸までの領土拡張を賛美する狙いもあって、ピュテアスの説を否定したかもしれない、とBarry Cunliffeは「The Extraordinary Voyage of Pytheas the Greek」の中で述べている〕。
カエサルがブリタンニアへ遠征した時期は鉄器時代であった。島の人口は約100万人と見積もられていた。経済的、考古学的にブリタンニアは低地部分(平野部)と高地部分(山岳部)に分割されていた。
南東の低地部分は、肥沃な広大な土地は耕作に適し、イックニールド・ウェイ(Icknield Way)、ピルグリムス・ウェイ(Pilgrims' Way)、ジュラシック・ウェイ(Jurassic Way)のような街道、そしてタメシス川(現:テムズ川)のような航行可能な河川といった交通網が発達していたので、文化交流も行われていた。
現在のグロスターリンカンの間に位置する北部の高地部分は、耕作可能地が孤立気味に点在した土地柄で、牧畜も同様であった。また、園地栽培が主たる生計の手段となり、農場も定着より共同で、文化交流もより困難であった。
定住の集落は、一般に高地へ砦を築くことを基本としたが、ブリタンニア南東部(低地部分)では、しばしば、(タメシス川などの)川が交差する低地にオッピドゥムが築かれ始め、重要な交易拠点として機能を果たしつつあった。
大陸(ガリア)との商業的な接触は、前124年にローマがガリア・トランサルピナを征服してから増加し、イタリア製ワインは、アルモリカ(en)部族との交易により入手し、ドーセットのヘンギストブリー(en)へ到着した〔Sheppard Frere, ''Britannia: a History of Roman Britain'', third edition, 1987, pp. 6-9〕。
カエサルの報告書(ガリア戦記)によると、ガリア北東部に住むベルガエ人は、初期は略奪のためにブリタンニアへ渡り、その後はブリタンニアの沿岸地帯に勢力を築いていた。スエッシオネス族(en)の王で生ける伝説と言えるディウィキアクスは、ガリアと同じぐらいブリタンニアでも勢力を保っていた、と記されている〔カエサル「ガリア戦記」 2.45.12〕。
ベルガエ人たちが鋳造した硬貨が入植の困難な様子を示している。ブリタンニアで発見されたガリア・ベルガエの硬貨で最も古いのはガリアで鋳造され、前100年より以前、恐らくは前150年頃と鑑定されており、多くはケント(ラテン語:カンティウム)で発見されている。後に同様の型の硬貨がブリタンニアでも鋳造され、ケントから遥か西、ドーセットに近い南の海岸でほとんど全て発見された。
恐らくは政治的な支配を打ち立てた地元の首領を通して、ベルガエ人の影響力はブリタンニアの遥か西や内陸部にまで広がっていたこと、ベルガエ人の入植地は南東の海岸沿いに集中していたことが、以上のことより覗える〔Frere, ''Britannia'' pp. 9-15〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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